みなさんこんばんは。
ローマカトリック教会が同性婚は祝福できない。
そう公式に発表しましたね。
以前、ローマ教皇が同性愛者も神の子であると発言したことは記憶に新しいですが、
今回は教理省による、宗教的な祝福を与えることは出来ないという見解を示した形になる。
天地創造において、神の御計画では同性愛者は想定されていない。
まあ、そう言っているようなものだと僕は思うのですがどうなんでしょう?
全ての被造物は神の物だという教え。
それは時に選民という歪んだ観念を人間によって生み出されてきた。
いわゆる解釈の問題だ。
宗教や信仰心とはなんだろう?
社会の編成が変わるにつれて、同性愛者への伝統的な宗教の見方も変化しつつあります。
長い間、同性愛は命を作り出せない自然に背く行為だと突っぱねられてきましたたが、
近年は信者として拒絶するべきではないと受け入れようとする姿勢を見せ始めました。
もともとは公平に相手の自由を尊重する、そういう教えなんだと思う。
しかし、聖書になんとも表現できない矛盾を感じる人も多いだろう。
例えば、旧約聖書に登場するカインとアベルの話。
2人は神へ捧げ物をするのだが、カインは農作物でアベルは羊だった。
神は農作物へは目もくれずに羊に目を留めるんだけど、ものすごく俗物的だったりして(汗。
聖書の中では、人間の罪に対する贖いに神から生け贄を捧げよという命令がされる。
赦されるために生け贄の血を流す行為は、神からの恵みであると考えられてきた。
理解しづらいというか、不思議だよね。
あとは誰でも一度は聞いたことがある5番目の戒め「汝、殺すなかれ」という言葉。
つまり人を殺したり、憎んだ者には裁きがくだるから隣人を愛せよと説いている。
それなのに聖戦と称した戦争や暴力は一セット。
平和を謳いながら武力闘争で統一する宗教なんて、本当に人間は業が深い。
今回の同性婚の見解は、アガペーの教えに沿った隣人という個人への祝福はするけれど、
家族の計画に入らない同性婚という形への祝福はしませんよっていう面倒くさいものだ。
これにLGBTQのハリウッドセレブたちが逆ギレかまして「小児性愛者の神父」がいたことを
やり玉にあげているけれど、まさに目には目を歯には歯をという報復律を実行してるのは
同じLGBTとしては本当に情けないことだと、正直にいえばそう思ったんだ。
性暴力の聖職者がいるのは事実。
しかし、他に同性婚を祝福してくださっている神父様たちもいるのだからこれはない。
確かに古臭いし悲しいし、気持ちをぶつけたくなるのは分かるけどね。
脊髄反射のように全方位にキレてたら、いつか本当の味方まで失いかねない。
僕も相方も今でも聖書は持ってて、子供の頃は教会や日曜学校に通ってた。
相方は特定の子を贔屓する神父様が嫌いになって、
僕は子供に執拗にお布施を強要するのが嫌になって気づいたら通うの辞めてた。
今では聖書は本棚にある単なる飾りみたいなもん。
いつまでも諍いや闘争ってなくならないのね。
ただLGBTを受け入れてくれる人がたくさんいるという事を忘れないようにしたい。
受け継がれてきた教義は、先へと続いていく歴史や社会によって変わっていく方が自然だ。
僕達日本人は、積極的な信仰心はなかったとしても神道に根ざした歴史を紡いできた。
お正月の初詣やお盆の帰省などがそうだ。
その反面、面白いものでクリスマスだってみんな大好きだ。
結局は、自分の心の中にある概念を自分自身が信じるか信じないか。
いろんなものを雑多に受け入れられる日本は本当に寛容な国だと思う。
目に見えない神の存在を知り得る立場にない。
そんな不可知論者という考え方があるけど、別にそれでいいんじゃないかな。
彼女ができた、神様ありがとう!
宝くじが当たった、神様ありがとう!
案外、そのほうが人は幸せだったりするのかもしれません。
そういえば僕の名前は有名なお寺で名付けてもらった。
女系一族の本家ではじめての孫だったから、親もそうしたんだと思う。
だけど神のご加護はほんとにあるのかな?
時々そう思っちゃう僕はとんだ罰当たりかもしれない。
僕のそばにわんこ達。
うしろに神様とご先祖様がついていてくれたら僕はきっと無敵だ。
それじゃまた。