みなさんはレッドリボンをご存知でしょうか?
国や性別、目の色や人種を越えた赤いリボンをシンボルにした世界的な運動のことです。
赤いリボンにはエイズで亡くなった人々への追悼の意と
エイズへの理解と支援への願いが込められています。
1985年から今日までのHIV/AIDS感染者の累積報告件数は25,536人
(凝固因子製剤による感染者は含まない)に達しそのうち異性間の性的接触が7,540人
というデータが厚労省エイズ動向委員会により発表されています。
今年、27年度のキャンペーンテーマは、AIDS IS NOT OVER だからここからです。
薬害エイズ事件を経て、身体障害者福祉法という観念から
各種福祉サービスを受けられるようになって久しい。
多くの先人たちの闘いがあるからこそ今があることを
ボクたちは決して忘れてはならないと思います。
人によっては免疫機能障害が承認された際の「感染経路を問題にしない」
という文言が盛り込まれた経緯には今でも納得できない人もいるでしょう。
日本ではエイズパニックによるネガティブイメージから、
長きに渡ってゲイや麻薬中毒者、セックスワーカーの病気だとされてきました。
国民にそんなイメージを思い描かせるマスコミ報道の過熱ぶりが、
病気を正しく理解する機会を奪い、その後の性教育の遅れを招いた
一端となった気がするのです。
これは、性について語ることがタブーとされてきた
日本特有の風土の問題も根底にあるのではないかと思います。
感染予防に必要な情報を正しく得ることは難しい。
コンドームやデンタルダムなどの使用の徹底などが警鐘されるようになったのも
ごく最近のことにすぎません。
http://hutaigarashi.blogspot.jp/2014/12/blog-post.html
昨年の世界エイズデーにも少し似たようなことを書きましたが、
慢性病としてのステージに移りつつあるHIV/AIDS。
もし感染したとしても一早く治療を開始してウイルスを抑えれば、
劇症的にエイズを発症して死に至ることは今では少なくなりました。
・・・だけど正直なところ健常者と同じ普通の生活なんかできないのです。
田舎の狭いコミュニティーに住んでいた人は、
感染がばれるのを恐れて住み慣れた土地を離れていき、
都会に住んでいる人もその社会の希薄性から誰にも相談できず、
心を病んで孤立していく・・・
プライバシーの漏洩や蔑視されることを恐れている感染者がほとんどな現状のなか、
社会環境の整っていない現段階では普通に暮らすことは困難と言っていいのかもしれません(汗。
ともに生きる社会のありかたを創るのは容易ではない。
セクシュアリティの多様性や自分とは違う障害を認めるという作業。
未知の領域へ足を踏み入れることはそこには不安や恐怖が付きまとうものです。
他人の考え方は変えられない。
人は自らが経験することによってはじめて「変われる」ものだし、
自分に関係ないと思えばその知識は意味をなさない。
これは先日の神奈川県海老名市の鶴指市議のニュースにも同じことが言えると思います。
彼の場合は市議ということもあり、職業倫理からすれば
公平性や中立性を損なう失言であったと思いますが
人はイレギュラーな存在に対する不安や恐怖から自己防衛本能で
その加虐性が増すことが言われています。
宝塚市の大河内市議の「宝塚がHIV感染の中心になったらどうするのか」も同じことです。
同性愛を受け入れられない人はいる。感染者を受け入れられない人はいる。
社会参加という観点において、公職にある人ですら恐怖という感情で
他人を忌み嫌い、そして排斥していく・・・。
けれど、感染者を排除した世の中になればHIV/AIDSという病気が無くなるわけではありません。
本当に怖いのは感染したことが分かって治療を受けている患者ではなく、
その倍はいると言われる無自覚な隠れ感染者の方たちなのです。
「知る」ということは難しい。そして人は知らないことに恐怖を覚える生き物です。
なぜなら、自らを危機的状況に晒す危険が潜んでいることを本能が警告しているからです。
しかし感染者が共生することを厭悪する環境の中で、
本当の意味での予防行動が育つことはないのかもしれません。
学校で一度もエイズ教育を受けていなかった大人ではなく、
若年層に感染が広がりつつあることからも予防の知識と行動がリンクしていない事が伺えます。
どちらか一方が得をしてどちらか一方が損をする二律背反の世の中に対して、
ともすれば人はその問題については頑なに否定的になります。
でもこう考えてみてはどうでしょう?
国民ひとりひとり全員が検査を受ければHIV/AIDSがどれだけ拡大しているか
本当の意味で把握できるし食い止める為の打開策も正確に講じれるんじゃないかと。
そして、それを継続することは自分やみんなの利益に繋がるのだと。
継続性とは、国民にとって信頼できる情報を発信し続けることであり、そして
感染者からのフィードバックを得ながらともに共生できる社会になることなんじゃないかと。
・・・今まで自分の胸にだけしまってブログに書いたことはなかったけれど
ボクは相方からこの病気と分かった途端、すさまじいDVを何日も受けていました。
あまりの暴力にこの状態で病院なんかに行ったら通報されるんじゃないかと
具合が悪いのをおして痕が引くまで我慢し続けました。
入院が長引いて着替えが足りなくてお願いしたときは、
病室でバッグを投げつけられてさんざん罵倒されたのを今でも忘れられません。
ボクも相方も年を取りました。
相方は俺様的な振る舞いが消えて、親の介護がきっかけで
ボクの病気のことも彼なりに勉強してくれました。
一番理解のなかった相方が今はボクの最大の理解者だなんて不思議なものです。
感染を不安に思う人がきちんとパートナーに打ち明けられる世の中になれば、
おのずと検査を受ける人も増えていくと思います。
そして仮に感染してたとしても、サポートできる社会資源がちゃんとあることで
前向きに治療に専念できる環境になるはずだと。
そしてボクらは知ってもらうために、理解してもらうために、
小さな声でもあげていくしかありません。
患者の日常を知ることで、HIV/AIDSに対するイメージが変化していくことを心から願います。
12月1日は世界エイズデー。
ほんの一日でいい、エイズについて少しだけ考えてもらえる時間を作ってもらえたら嬉しいです。
みなさんには健康でいてほしい、ボクのようにならないでほしい、そう思います。
偉そうなこといってごめんなさい。
読んでいただきありがとうございました。
*青葉さんへ
いつもコメントありがとうございます。
めっきり寒くなりましたが、お風邪などひいておられませんか?
ボクも協力病院で精神的にくることがあったので自分のことのようにコメントを読んでました。
周りを伺いながらの入院は本当に大変だったと思います。
青葉さんのおっしゃるように少しでも認識が変わっていくことを願ってやみません。
これは、性について語ることがタブーとされてきた
日本特有の風土の問題も根底にあるのではないかと思います。
感染予防に必要な情報を正しく得ることは難しい。
コンドームやデンタルダムなどの使用の徹底などが警鐘されるようになったのも
ごく最近のことにすぎません。
http://hutaigarashi.blogspot.jp/2014/12/blog-post.html
昨年の世界エイズデーにも少し似たようなことを書きましたが、
慢性病としてのステージに移りつつあるHIV/AIDS。
もし感染したとしても一早く治療を開始してウイルスを抑えれば、
劇症的にエイズを発症して死に至ることは今では少なくなりました。
・・・だけど正直なところ健常者と同じ普通の生活なんかできないのです。
田舎の狭いコミュニティーに住んでいた人は、
感染がばれるのを恐れて住み慣れた土地を離れていき、
都会に住んでいる人もその社会の希薄性から誰にも相談できず、
心を病んで孤立していく・・・
プライバシーの漏洩や蔑視されることを恐れている感染者がほとんどな現状のなか、
社会環境の整っていない現段階では普通に暮らすことは困難と言っていいのかもしれません(汗。
ともに生きる社会のありかたを創るのは容易ではない。
セクシュアリティの多様性や自分とは違う障害を認めるという作業。
未知の領域へ足を踏み入れることはそこには不安や恐怖が付きまとうものです。
他人の考え方は変えられない。
人は自らが経験することによってはじめて「変われる」ものだし、
自分に関係ないと思えばその知識は意味をなさない。
これは先日の神奈川県海老名市の鶴指市議のニュースにも同じことが言えると思います。
彼の場合は市議ということもあり、職業倫理からすれば
公平性や中立性を損なう失言であったと思いますが
人はイレギュラーな存在に対する不安や恐怖から自己防衛本能で
その加虐性が増すことが言われています。
宝塚市の大河内市議の「宝塚がHIV感染の中心になったらどうするのか」も同じことです。
同性愛を受け入れられない人はいる。感染者を受け入れられない人はいる。
社会参加という観点において、公職にある人ですら恐怖という感情で
他人を忌み嫌い、そして排斥していく・・・。
けれど、感染者を排除した世の中になればHIV/AIDSという病気が無くなるわけではありません。
本当に怖いのは感染したことが分かって治療を受けている患者ではなく、
その倍はいると言われる無自覚な隠れ感染者の方たちなのです。
「知る」ということは難しい。そして人は知らないことに恐怖を覚える生き物です。
なぜなら、自らを危機的状況に晒す危険が潜んでいることを本能が警告しているからです。
しかし感染者が共生することを厭悪する環境の中で、
本当の意味での予防行動が育つことはないのかもしれません。
学校で一度もエイズ教育を受けていなかった大人ではなく、
若年層に感染が広がりつつあることからも予防の知識と行動がリンクしていない事が伺えます。
どちらか一方が得をしてどちらか一方が損をする二律背反の世の中に対して、
ともすれば人はその問題については頑なに否定的になります。
でもこう考えてみてはどうでしょう?
国民ひとりひとり全員が検査を受ければHIV/AIDSがどれだけ拡大しているか
本当の意味で把握できるし食い止める為の打開策も正確に講じれるんじゃないかと。
そして、それを継続することは自分やみんなの利益に繋がるのだと。
継続性とは、国民にとって信頼できる情報を発信し続けることであり、そして
感染者からのフィードバックを得ながらともに共生できる社会になることなんじゃないかと。
・・・今まで自分の胸にだけしまってブログに書いたことはなかったけれど
ボクは相方からこの病気と分かった途端、すさまじいDVを何日も受けていました。
あまりの暴力にこの状態で病院なんかに行ったら通報されるんじゃないかと
具合が悪いのをおして痕が引くまで我慢し続けました。
入院が長引いて着替えが足りなくてお願いしたときは、
病室でバッグを投げつけられてさんざん罵倒されたのを今でも忘れられません。
ボクも相方も年を取りました。
相方は俺様的な振る舞いが消えて、親の介護がきっかけで
ボクの病気のことも彼なりに勉強してくれました。
一番理解のなかった相方が今はボクの最大の理解者だなんて不思議なものです。
感染を不安に思う人がきちんとパートナーに打ち明けられる世の中になれば、
おのずと検査を受ける人も増えていくと思います。
そして仮に感染してたとしても、サポートできる社会資源がちゃんとあることで
前向きに治療に専念できる環境になるはずだと。
そしてボクらは知ってもらうために、理解してもらうために、
小さな声でもあげていくしかありません。
患者の日常を知ることで、HIV/AIDSに対するイメージが変化していくことを心から願います。
12月1日は世界エイズデー。
ほんの一日でいい、エイズについて少しだけ考えてもらえる時間を作ってもらえたら嬉しいです。
みなさんには健康でいてほしい、ボクのようにならないでほしい、そう思います。
偉そうなこといってごめんなさい。
読んでいただきありがとうございました。
*青葉さんへ
いつもコメントありがとうございます。
めっきり寒くなりましたが、お風邪などひいておられませんか?
ボクも協力病院で精神的にくることがあったので自分のことのようにコメントを読んでました。
周りを伺いながらの入院は本当に大変だったと思います。
青葉さんのおっしゃるように少しでも認識が変わっていくことを願ってやみません。