桜の雨、いつか。

2021/03/29

ある視点。 ゲイの生活。

t f B! P L

 皆さんこんばんは。



僕は海のある田舎で育った。

庭には様々な草花が咲き、なぜかバナナやみかんの木があった。



そういえば、うさぎやシェパードを飼っていたなー。

あと、近くには小さな商店があっていつも駄菓子を買っていた。



閉鎖的な田舎では、人の口に戸は立てられない。

たまに衝突しあっては、人が少ないぶんお互いが寄り添う。

それは、しんどい関係に相反するようなささやかな幸せだった。



海に花火が上がる音、卵焼きを焼く音や、レコードの針先から漏れる音

いろんな音が心地よくて、ノスタルジックの魔法が掛かっていた昭和という時代。



当時を思い出せば、音や風景の親和性に感情が溺れそうになる。



陶然たる名勝地ではない、これといった名産もないようなのどかな田舎。

それでも有名なリゾートホテルがいくつかあって、ダイバーさんがたくさんいて賑やか。



海の匂いとともにふとした瞬間に蘇るあのころの記憶。

田舎の純朴な蒼い果実の学生時代、当時の僕にはちゃんと夢があった。



そしてその傍には幼なじみの親友がいた。



中学にあがったころ、あいつはイジメにあった。

親友を守りたくて庇っているうちに、次第にそのターゲットは僕に変わっていった。



だけど、親友は僕を庇わなかった。

でも僕はまたイジメられたら怖いもんなーとなぜか納得していた。

そして一緒に入った部活を辞めたんで僕も後を追うように辞めてしまった。




そこからは顧問がイジメに加担しはじめた。

ついでに数学を教える新米の女性教諭の嫌がらせも始まった。

理由はすでに高校レベルの数学を解けるようになっていたせいだ。



学力的に先を行きすぎてたことにとにかくムカついたと後にそう聞かされた。

君にはこの教科書いらないねと没収されて、ノートを取ることすら禁じられた。



あとは、母親がPTA活動に熱心だったんで、そこもずいぶんと馬鹿にされていたっけ。

クラス全体で笑い者にするよう命令したので、僕はこの女だけは許さねえと復讐した。



そのころの僕は、どの教科も上位にいたので成績のよい優秀な子扱いだった。

なので僕がしたのは、数学のテストを全部白紙で出し続けるというシンプルな犯行。



これが大問題になり、職員会議で彼女が僕にしていた事が明るみになった。

途中彼女が泣いて謝ってくるようになったけど、次の学年に上がるまで白紙で出し続けた。



はっきりいって問題児だったと思う。

分かっていたけど晒し者にされてあげくに虐めるように他の生徒を嗾けるのが許せなかった。



本当はここまでするつもりはなかったけど、結果的にそうなった。



その影で僕や母親は父親のDVに悩まされはじめて、

そして母をストーカーする男が公権力を持つ人間だったために組織だって脅されていた。

お前たちの勘違いだと言え、被害届は出すなとさんざん脅しの言葉が留守電に入っていた。



つきまとい行為が民事不介入だった時代、民間人の素人には為す術もなかった。

今なら新聞の一面を飾るような、連日マスコミが騒ぐような大事件だったように思う。



当時の留守電機能はメッセージの録音にテープメディアが使用されていて

その小さなカセットテープをしばらくの間おまもり代わりにしていたのを覚えている。



だけどその組織にいるひとりが、僕らが憔悴しきってるのを見て上司に怒りをぶつけた。

それから彼は自分の正義を通すために退職をした。



僕がとても憧れていた人で、将来へのアドバイスなんかもしてくれていた。

そんな彼のようになりたくて、将来はその職業を目指そうと事件までは思っていた。



辞めて一年後、会いに行ったら困窮した生活をしていた。

結婚してるのに畑を耕しながら自給自足のような暮らし、僕はそれを見て悲しくなった。



謝って謝って、また謝った。

彼は謝る必要なんてない、自分があんな中にいたくなかっただけ、

そう話してしばらくニコニコしながら頭をなでてくれた。



帰り際に収穫した野菜を食べなって渡してくれたけれど、

あまりにショックでどうやって家に帰ったかも覚えていない。



その少しあとから古本屋の親父にホモだとバラされたくないならとお金を要求されはじめた。

一度にいろんな事が起こりすぎて、僕はなんだか感情を無くしていていた気がする。



とにかく大人に付けいる隙を与えない。

そんな事を考えてばかりいる嫌な子供だったと思う。



ちゃんとした友達関係も築いてみたかったけど、

そこからは他に被害がいかないようとにかく空気になることに徹した。



勉強は分かるけどあえて可でもなく不可でもない成績を取るようにし、

出席日数もギリギリ足りるように調整していった。



目立たないように、目立たないように。

それだけを課してあとは隠れてバイトして親父に渡す金を稼いでいた。


高校を卒業後は、誰にも会わなさそうな場所を選んで進学し、

そのあとは母親とも決別して20年経過している。




もう何年経つだろう、親友が亡くなった。

首を吊る前日、僕の事をしきりに捜していたそう。

電話が欲しいと母親に言伝があったみたいで、僕も聞いた時には今さら会えないと思ってた、



最後に仲直りすれば良かったな。

許すって言ってあげたら、僕のところへおいでよって言ってたら、、、、後悔はつきない。



そしてかなりの倍率をくぐり抜けその職業についたはずのあの人は今どうしているのか?

心の中で燻り続けている思いとうらはらに、確かめるのが怖い臆病者の自分が苦しい。



つい最近、父親のその後を確かめてみた。もう25年くらいは会ってないが、

父の実家は立派だったはずなのにGoogleで見たらボロボロだった。


誰も手入れをしていないんだろう、

その土地では一等地の場所にあるはずが変わり果てた姿に驚いた。

周囲は区画整理がされとても綺麗なのにそこだけ幽霊屋敷のようだった。


それとなく経緯を知っている人に聞くと、家族は離散状態で父ひとりが家に住んでいるようだ。



DVで家族を苦しめた人ではあるけど、なんか可哀想な人だなと思ってしまった。

この先もコンタクトをとることはないが、どうか病気もしないで長生きしてほしい。



僕は田舎が嫌いだ。

そして僕は僕が嫌いだ。



そんな僕に相方がいるなんて幸せなこと。

そう思う。



だから僕にとって、今の人生の目標は「まだ死ねない」です。

相方にしてあげたい事がまだたくさんある、だからそれまでは生き延びたい。



向こう側に行くとき、僕は本当の自分に還れるんだろうか。

答えはないから、生きているあいだに自ら見い出さなければならない。



何気ない誰かの優しさに寄りかかりたい時がある。

人の笑顔は眩しくて、人をいつまでも信じきることのできない自分が恥ずかしくなる。



僕に罪があるとしたらそれは何なのだろうか。

僕が生きていいのかを判断するには、僕は余りに幼くそして欠陥人間だ。



でも僕が出来ることで相方を幸せにしてあげたい。

この気持ちだけは変わらない。



こんな雨の日はわんこに会いたくなる。

そして楽になる方法ばかりを考えてしまう。



でもいろんな縁に助けられたこと。

いろんな幸せを見られたこと。

自分のいる限りのある範囲で人と関われたことは宝物だ。



それを忘れないでいたい。



これを読む人は僕を異常者だと思うかもしれないけど、

僕は相方ともう少しだけ一緒に歩んでいけたらそれでいい。

もうおっさんになってしまったけど、やっとそこにたどり着けたように思う。




両親を送る日が来たら2人で穏やかに過ごしたい。

こんな僕がそんな願いを持っていいのだろうか?



そうなれたら嬉しいな。




それじゃまた。












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