皆さんこんばんは。
冬日和の澄んだ光が、灌木の隙間から這い出て辺り一面に土の香りが吹き込んできた。
途次、目の前の萌芽に手を伸ばせば、春への情景が鮮やかに広がっていく、、、、
今日はデイサービスだったので、僕は夕方まで仕事をしていました。
困ったことに、会社に出勤して団体行動をすることが「働く意味」だと両親は思っていて。
脈々と受け継がれてきた古い体質のせいで、2人とも家で働くということが理解できない。
お前のようなドロップアウトした人間を、優しい私達は雇ってやっていると言い切る。
新型コロナウイルスの蔓延をきっかけに、非接触型サービスへ業態を変える企業も増えた。
それでも両親のように、在宅ワークを内職かニートの言い訳程度に考える人が多いという。
そもそも2人に雇われてなんかないし、お金についても1円ももらってない。
フリーランスなんだけどなあ。ほんと疲れる。
あまりに毎回なので、相方が介護してる時間を僕の時給に換算したものを見せた事がある。
それでも内職のバイトのくせにそんな金になるはずない!とまったく話にならなかった。
一応、専門職だからその金額にはなるんだけど、、、さすがに霞食っては生きられません。
どうも僕への態度から、自分達に無料で尽くすのが当たり前だと思っている節があって(汗。
人はあまりに攻撃されると、心を守るためなのか無感情になる気がします。
それでも最近、僕なりにちょっとだけ人らしい感覚が戻ったと思うのです。
以前、両親の暴言の影響で幻聴が聞こえるようになってたころは、
家への帰り方が分からなくなって、1度だけ相方に迎えに来てもらったことがありました。
そういう時ほど、介護も仕事もいつも以上に完璧で。
だから相方も、ずっと僕のおかしさに気づけなかったと言っていました。
知らない街で、財布もカバンも持たずにいた恐怖は忘れられません。
靴が片方なかったんで、スマホがズボンになかったら任意同行されてた気がします。
でも僕は、さまざまな感情に自分が振り回されてることを自覚できてから、
内なる衝動とそこそこ上手く付き合えるようになってきたんじゃないかと思うのです。
何者かでならないという意識から離れたら、人は本当の意味で自由かもしれない。
この世のものは絶えず流れていくから、執着することは幸せには繋がらない気がします。
求めることをやめたら苦しくない。
心のどこかで人に期待するから鎖に縛られてしまう。
どんなときでも足るを知るということが大事なのかもしれません。
夕方、買い物に出たら父が数年前にお世話になった病院スタッフの方と再会。
かなり高齢だからいざという時の覚悟もしてくださいと、そう言われてから3年が経った。
すっかりピンピンしている父のことを話すと、喜んでくださって僕は嬉しくなった。
高齢者の入院は、どうやって自宅に帰すかがいちばんのポイントになります。
入院が長引けば、筋肉が衰えて心身機能も低下していくからだ。
ベットの上にいる時間が短縮されれば、障害を残さない社会復帰に結びついていく。
実際、自宅に帰ってからも普通の食事も喉を通らなくなっていたので大変でした。
咀嚼や嚥下機能が低下してたので、流動食や上澄みだけのスープを一ヶ月。
そこから先は形がくずれるほどドロドロに煮込んだものを食べてもらってました。
退院後の生活を普通にするまでに、なんだかんだ二ヶ月はかかっていた気がします。
つくづく寝たきりにならなくて良かったと思いました。
でも、ここのところ、両親を見て思うのです。
人間の尊厳とは一体なんなのか?と。
いまも答えは出ない。
.......外にはただ、黒洞々たる夜があるばかりである。
それじゃまた。