繋がりを大事に

2015/01/05

日常のはなし。

t f B! P L
みなさん、こんにちはなのだ。


三日、初詣に行ってきました。

まだ三が日ということもあって境内は大賑わいで、
ボクもようやくお正月の空気を感じることができました。

今年は御祈祷をしてもらおうと思い、受け付けをして玉串料を納めました。
そういえば元相方が東京を離れる最後の年は一緒に御祈祷したなあなんて。

これから苦しい治療が始まります。

だから神様にたくさんお願いしてきました。
もうこんなにお願いしていいのかってくらい祈ってきました。

おみくじを引いたとき、何事も疑う事なく信じなさい的なことが書かれてて、
いまのボクの気持ちそのまんまでした。

全ては自分の生き方の結果だけど、人見知りが拗れずぎたせいか、
イイことがないのが当たり前だと思って生きてきました。

だから繋がってくれた前の相方さんや元相方の自分勝手な言動もグっと呑み込んで、
この人を失えばまたひとりに戻るという恐怖が今の自分を作ってきたのだと思います。

もっと喧嘩すればよかった。もっと自分の意見を言えばよかった。
イエスマンなんてこんにゃろだって思えたらよかった。後悔はつきないのです・・・。

しかし、すったもんだの末、全てを失い、本当の意味でひとりになってはじめて、
ボクは今さらながら、自分の中の闇と向き合おうとしていたりします。

大切な人の涙を知って自分自身を変えようとも決意している、
頑張れるところまでは頑張ろうと思っている。

ただ、今の時点で決めていることがあるんだ。
限りある時間を大切に使って自分なりの終わりをちゃんと描きたい。

ひとりだからこそ、誰かの世話にならず、母親に絶対知られることもなく、
ちゃんと来るべき日を迎えようと思っています。

ボクは弱虫だ、高いところは怖いし、採血はいまでも目がグルグルするし、
病院の待合室は苦手だし、正直なところヘタレすぎる人間です。

だからこそ、今を、この先を、自分の死をちゃんと見つめて決めておくことは、
ボクにとって決心が揺らがないための大切な儀式みたいなものかもしれない。

こういう事を書くと眉をひそめる人もいるけど、別に悲観的にこれを書いているわけではない。
つまりは弱い人間なりの処世術といったところなのだ。手さぐりで進むよりはずっといいのだ。

ここ最近、連続でボクの周りの人たちが癌になったり、透析を受けるようになったりして、
そのあまりの人数の多さにさすがに落ち込んでいました。

ボクが一番頼りにしていた仕事仲間や尊敬する人などがほとんどだったから、
もしかしてこんな自分と関わってるから?とあらぬ事まで考えたりしたや。

その矢先の自分のあらたな病気発覚、なんだかついてない一等賞をもらったような
そんな感じがして、思わず嗚咽が出ちゃったりして、もう言葉もありません(涙。

・・・人生が穏やかれあればそれが一番喜ばしい。当たり前のことなのだ。
でもその当たり前も、最初から手にしているのがどれほど素晴らしいことなのかは、
生きている中で見えないことが多い。

病気になって、いろんな事を考える機会を与えられようやく気づけた事ではあるけど、
病気になってからではもう遅いのです。

だけど、病気にならなければ出逢わなかった人もいるわけで、
プラマイゼロな人生だったと思えばそう悪くないのかもしれないかな。ね?

閑話休題・・・。

実は昨年末に連絡フォームから初めてのメールが来たんだ。
需要もないし外そうかなと思っていたのですげえ嬉しかった。

その方は、アメーバブログから消えたボクの事をずっと探していて、
やっと見つけたということでメールしてくれたのでした。

ブログ村に再登録してほしいとその人からのお願いがあって、
考える時間が欲しいのでしばらく保留にさせてくださいとボクは返信しました。

以前はほーぷくん。と名乗ってて、Twitterではいまでもほーぷくんなのですが
新しいこちらのブログでは名前を変えてブログを続けています。

だから見つかりにくかったとは思うのですが、正直に言えばそれは意図的で
アメブロからこちらへの誘導告知を見てくれた人だけでもういいかなと思ってました。

いろいろ考えた末、望まれるうちが花かなと思い本日付で復活することにします。
今後ともお手柔らかに当ブログをどうぞよろしくお願い申し上げます。


Jan.05,2015 五十嵐風太。









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