だいぶ前から、感染治療学分野教授である岩田氏の個人ブログをよく見ている。
3日の記事に書かれていた、拠点病院にまつわる業界内外における医療格差についての考察は、
今後いずれ来るであろう感染者の介護の受け入れ問題にも通ずる身につまされる話だと思った。
きっといい先生なんだろうな・・・。
現実に戦いを挑む事、それは悪戯に不確かな情報に惑わされる時代じゃないということだ。
臨床の世界はデータが全てなところがある。
難病治療の発展のために実績をあげることは確かに急務だと言えると思います。
淡々と綴られている氏のブログを読むたびに、ボクはいろんな事を考えさせられるや(汗。
医者にとって生きるとはどういう意味だろうか?
そして死ぬとは一体どういうことを指しているのか?
それとも・・・もっとドライな概念なのだろうか?
一緒に考え、一緒に悩みながら、ボクという患者の人生に寄り添う事を、
つい医師という存在には求めがちになる。
しかし現時点で一生治らないのならば、
ボクは見世物小屋の一員や実験台には実は絶対になりたくない。
ひとりの人間として、医療のお役に立ちたいという殊勝な心がけは持つべきだと分かってる。
でも許されるのならば、できれば極力穏やかに逝きたいという思いがそれ以上に強い。
新薬についての安全性の検討、有効性の実証、副作用の有無、患者の死、投薬の失敗例・・・・
その積み重ねがあるからこそ今の医療があるし、また医療が受けられる事に感謝しています。
ボクは矛盾だらけだね、本当に申し訳なく思います。
・・・前置きが長くなってしまったが、感染者は年を経るほど腎疾患の確率が高くなる。
投薬治療の他に透析治療も受けるとなると、それこそ人体への負担は計り知れない。
自らの日常を維持しようとバイアスが働くのが人の世の常だといえるのなら、
患者の住んでいる地元で透析を受けられるほうが、少しでもその負担が軽くなるに決まっている。
感染者の透析医療ガイドラインは随分前からあるように思うけど
なんだかんだ受け入れてくれる医療機関は限られているのが実情なのだ。
医学はその輝かしい発展と共に、いまだ解消できない闇がある。
先生は感染者が他の人と同じ人である以上は分け隔ては無用の物だと言ってるのかもなんて。
それは特別な機関を設けるまでもなく、どこでも受けられる社会に寄り添う病気だと考える。
その込められた想いを考えると、一当事者としてすごく嬉しかった。
確かに拠点病院外で感染者が透析を受けられることは今のところないのだろう。
ブログに書かれている通り、80年代のエイズパニックで時間が止まっているかのようだ。
ボクに将来なんてあるのかな?いますごく怖いんだ。
専門的な感染症科が広く設立されるようになってまだ日が浅い。
受け皿になる社会基盤がないのだから所詮は理想論なのかもしれない。
実際にはHIVをみれない「なんちゃって」拠点病院もたくさんあります。
教授がそう言い切っているのには目を見張ったし驚いたんだ。
うちは拠点病院ではないのだから関係ないという免罪符を撤廃したいからこその廃止論。
一見極論のようだが、感染症科を全国へ広めるのに尽力した教授だからこその言葉なのだ。
それをリスクと取るのか、メリットとし享受するのか、
患者の立場からすれば不安も多々あるのですが、
いろんな事が変わらないといけないところにまで来ているのは、
言うまでもなく事実だとボクも思いました。
ともすれば業界内で敵を作っちゃうだろうにね。
ボクら患者の事を本当に考えてくれてるんだな(涙。
願わくばこの先生の撒いた種が一粒でも多く全国の病院に芽吹いていくことを祈ってます。
ボクは医療に、医療に携わる人たちによって生かされています。
ありがとうございます。