クリーンなイメージの人間が、ある事をきっかけにして奈落の底へ堕ちていく。
が、まてよ?
その悪としての側面ばかりをことさら強調し、正義の名の下にという、
そんな大義名分さえ踏まえていれば人としての尊厳を踏みにじる報道をしてもいいの?
最近、テレビ見ていて疑問に感じたこと。
生い立ちを暴こうが、未成年の子供の顔を公表しようが、
どれだけ悪の権化に仕立てあげ、極道かのごとく錯覚させよーが、
それらはなぜか、常識的な事として不思議と世論の声として容認されてしまう。
それがいくら、『悪の部分』の代償とはいえ・・だ。
印象操作する側にとっては、取るに足らないいつもの仕事でも、
当事者にとっては人生をめちゃめちゃに破壊される一大事だったりします。
ジャーナリズムの仮面を被ればなんでも許されるという、そんな世界に驚くのだ。
放送倫理っていったいなんだろう?
視聴率のためなら骨までしゃぶりつくし、嬲り者にしてやるぞーみたいな、
公開リンチ的報道姿勢にはある種の、ストレス解消の嫌らしささえ感じてしまう。
結局、依存してしまうその理由を探らないことには、
断罪するだけでは何の解決にも導いてはくれないから、その人も抜け出せない。
罪を憎んで人を憎まずってのは、無理なことなのかなー?
それに、末端どころか、使用者の過剰報道するよりも、
供給者という闇にスポットライトを当てるほうが、よほど、ジャーナリズムを感じます。
でも、その辺はなぜか、面白いほどみんなスルーなんだよね。
絶対的禁欲とか、絶対ダメッとか、一辺倒に縛るだけじゃもうダメだと思うよ。
海外の政策に見られるような、Harm Reduction的アプローチをしていくことで、
大きな意味でのリスクファクターの軽減に繋がるんじゃないのかなあ?
タバコで言えば、NRT(ニコチンの代替療法)とか一種のソレだしね?
過ちを犯しさえしなければ、叩かれることもないだろう。
では、自分の場合はどーだ?
ボクはこの病気になって、1つ自分の中で変わったことがある。
それは、自分がその相手の立場だったらどーなるのか?
一体、自分がその立場だったらどんな目に合うんだろーか?
と、常に自分(HIV)に置き換えて考えるよーになったこと。
その時の状況において、複合的に作用するものを一般常識に当てはめて、
すべてを善悪で線引きする固定観念は、他人をや自分をきっと苦しめることになる。
例えば、ボクが感染者として、面白おかしく報道されたらどーするよ?
って、考えるんだよね。
茫漠とした時間をのほほーんと、なんとなく生きてきた自分にとって、
病気の発覚で、命の終わりをはじめて自覚させられた時
なんだか突然、闇の中におっ放り出された気がして、すっげえ怖くなった。
そして、発覚直後は情報を集めたくて、ネットでHIV関係を探しまくったことがあって、
焼き捨てろよとか、烙印押してひと目で分かるようにしろとか、血税使うんじゃねーよとか、
思わず目を背けてしまうよーなことが、たくさん書かれていて心臓がバクバクした。
これをもし、テレビとかで自分に対してやられたら?っていつも思うのさ。
例えば、医療を受ける資格だけはあって、医療忌避は免れたとしても、
その辺を歩いている、あの人にも、この人にも、アイツにも、
もしかしたら、その報道の思惑通りにボクはそー思われてんのか?なんて。
そう考えるだけで、じゅうぶん人間不信になってくると思う。
過去には、良いエイズ・悪いエイズってのもあったし。
人はいくらでもやり直せるさ。
泥中之蓮という言葉があるように、どんな環境にいたとしても、
負けずにがんばろうぜって、ボクは心が折れそうになるたんびに言い聞かせている。
そーそー、障害者自立支援法廃止だってニュース。
今後はどうなるんやろ?
連休はみなさん、どーしてますか?
ボクはお休みは友人と会ったり、感染者SNSで初リアルするかも?な予定です。
おやすみなさい。